人生における問い
2012年01月05日
毎月のお給料とともに僕からのお手紙をR子さんとT子さんに渡すのも
今年も今日で最後。
2011年を締めくくるのはこんなお話です。
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「人生における“問い」
2011・12・31
3歳で右目を、9歳で左目を失明。
18歳で聴力も失い、全盲ろうになった福島智氏のお話をご紹介します。
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私が思うに「修業」というのは、
何らかの苦悩を伴いながら
自分を高みに連れていこうとする営みのこと。
ビジネスでも、
学問でも、
お寺の勤行なんかでもそうかもしれない。
しんどいことはしんどいけれど、
そのしんどいことを通して別の喜び、
別の景色が見えてくるということだと思います。
私自身は障害を持ったほうがよかった、
などと単純には言いません。
ただ、たまたま障害を持つという運命を与えられたことによって、
自分自身の人生について、
また障害を持つとは何なのか、
完全でない人間が存在するとはどういう意味なのか、
といったことを考えるきっかけを得ました。
誰かに質問されなくても、
絶えずそのことは心のどこかで考えていることになりますので。
そういう人生における「問い」が私の心の中に刻まれたという点で、
自分にとってはプラスだったなと受け止めているんです。
完全な答えが出ることはないでしょうが、
重要なことは、
問いがあって、
その問いについて考え続けることだと思います。
その部分的な答えとしては、
おそらく人間の価値は
「具体的に何をするか」
で決まるということ。
何をするかとは、
何を話し、
何を行うか、
すなわち言動ですね。
私が盲ろう者になって指点字の通訳が始まりつつある時に、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだんです。
その作品の中で、ある貴婦人が
「私は人類愛がとても強いのですが、
来世を信じることができません」
と悩みを打ち明ける。
それに対して長老は
「実行的な愛を積むことです。
自分の身近な人たちを、
飽くことなく、
行動によって愛するよう努めてごらんなさい。
ただし実行的な愛は空想の愛に比べて、
怖くなるほど峻烈なものですよ」
と諭すんですが、私もそのとおりだなと思いました。
人間は博愛主義者にはすぐになれるんです。
「全人類のために」という言葉は誰にでも言うことができる。
だけどすぐそばにいる人の困っていることに対しては、
案外冷淡になるんですよね。
だからこそイエスは
「汝の隣人を愛せ」
と言われたのではないかと思うんです。
(略)
医師も看護師も、その他様々な職業に就いている人たちも、
問われているのは世界中の人々に対してどうこうではなく、
具体的な他者に対して何ができるかということです。
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今年も一年、元気に働いてくれてありがとうございます。