「伸びる人と伸びない人の差」


2014年03月01日

今日は月末ですので

R子さんにお給料

T子さんに生活費

そして

お手紙を渡します。

 

今月はこんな話です。

 

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「伸びる人と伸びない人の差」

              2014・2・28
山田満知子(浅田真央選手を育てたフィギュアスケートコーチ)

 

はっきりいって、頭が悪いのはダメですね。学校の勉強じゃないですよ。

1を言って10を知るじゃないけど、コーチがいま何を考えているかとか、


きょうは何を練習したらいいかとか、
こちらが何も言わなくても察することができる。
そういう勘がいい子が伸びますね。

私の場合、チャンピオンにするとか、
メダリストにするとか、実はそれほど興味がないんです。

うちに習いに来て、3しか能力がない子を
5とか7とかにすることはできても、


もともと10の才能を持っている天才にはかなわない。

五輪に出てくる選手なんてみんな天才ですよ。
その天才たちがさらに天才的に努力をして、
やっとメダルに手が届くかどうか。そういう厳しい世界です。

世界の頂点に立てるのは天才の中の超天才だけ。
たまたま(伊藤)みどりや(浅田)真央はなれましたけど、なれない人がほとんどなんですよ。

 

そりゃ私も2番より1番のほうがいいですよ。
でも、たとえ5番でも、みんなから

「あの子、いい子だったね」
「あの人の演技って素敵だったね」
と言われるスケーターがいいなと私は思います。
だってジャネット・リンだって3位ですよ。
誰も1位の人なんて覚えちゃいない(笑)。

彼女のスケートのいろいろなシーンに人間性が出て、
それがいつまでも私たちの心に残っているんです。

 

だから私はジャンプができないとか、
スピンが下手とか、そういうことではまず怒らない。

礼儀とか躾のほうが多いかな。
反抗期の時、生意気だったり、
先生にプンみたいな態度でいる子には
「ちょっと待ったぁ!」と。

「私はあなたより年上で、


しかも先生でしょう。
いまの受け答えはないでしょう」

とはっきり言います。
要するに生き方の注意のほうが多いですね。

みどりはハートの強さと優しさが混ざった
演技をするスケーターでしたし、
真央は素直で自然体の愛らしい演技をする子。

それってそのまま彼女たちの性格ですよ。
人間性が全部スケートに出ているんですね。

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祝!100歳!


2014年03月01日

【祝!100歳!】

今日は僕のばあちゃんの100歳の誕生日!

とっても勝気で元気なばあちゃんで、

僕とばあちゃんは60歳違いの同じ寅年生まれ。

当時、もうすでに父親にお店を譲り、

両親が忙しく働いている時に、

小さかった僕の面倒を見てくれたのがばあちゃんだ。

「あなたは大器晩成だからきっと大物になる」

とか

「この手の爪のカタチは器用な手だ。

さすが大工だったじいちゃんの孫だ」

とほめそやして育ててくれた。

若い頃、じいちゃんを戦争で亡くし、

女手一つで父をはじめとする三人の子どもを育てるために

床屋さんになり、お店を出して

大変な苦労をしたそうだ。

そこで培ったであろう

負けん気は相当なもので、
近所でも有名なばあちゃんだ。

60歳から始めた道楽の日本舞踊も、

芸歴は30年を超え、

生徒さんを持ち、教えるようもなった。

町内会の盆踊りのアトラクションとして

ばあちゃんが子どもたちに教えた

「白虎隊」の踊りは

ばあちゃんが指導の現場から離れた

今も毎年受け継がれ、小学生が毎年踊っている

夏の風物詩になっている。

そんなばあちゃんの

人生ってどんなだったんだろう?

僕はあまりにも知らな過ぎた。

ばあちゃんの人生や

旦那さん(久吉じいちゃん)について。

僕の勘違い・・・

ばあちゃんはじいちゃんが太平洋戦争でなくなって

子どもを養うために床屋を始めたと思っていたが、

実は元々床屋さんであったということ。

じゃあどうやって大工のじいちゃんと知り合って

結婚したの?

聞いてみるとホントに意外な知りもしない事実が。

久吉じいちゃんとひろばあちゃんが結婚したのは

31歳と27歳の時。

その当時、31歳まで独身というのは珍しかったそうで、

なんでも、じいちゃんのお母さん、

「マサばあちゃん」

の影響が大きかったようです。

そのマサばあちゃんは、近所でも有名な

「オニ婆様」だったそうで、

じいちゃんも30回ほどお見合したけど、

もう少しのところで、すべてぶち壊してしまっていたそうです。

しかし、そのマサばあちゃんもとても信心深い人で、

ある時、神降ろし(今でいう占い師や、霊能力者と言われるような方)から

「北の方角に寅年生まれの丸顔の女がいるので

その人をお嫁に貰うと幸せになれる」

とのアドバイスを受けたそうな。

それに該当したのがひろばあちゃんだったようで

なんどもなんども嫁にきてくれと

じいちゃん、マサばあちゃん、そして神降ろしの方と三人で

お願いに来たのだそうです。

しかしばあちゃんは、そんな訳のわからない理由で

お嫁に行きたくなくって、かたくなに拒否していたが、

親から

「あんなに熱心に来るくらいだから

きっと大切にしてくれるはずだ。

親は子供に世からと思うことしか言わないのだから

言うこと聞いて嫁に行け」

と説得され、

晴れて・・・というか

いやいやながらも嫁に来たのだそうです。

すると、

世間では悪名高きマサ婆様もとても大事にしてくれて

子どもも3人授かり、暮らしていたのだそうです。

じいちゃんは大工さんだったようだけど、

仕事がなかったのでよく出稼ぎに出かけていたらしい。

ばあちゃんもばあちゃんで

お店を居抜きで借りて繁盛させたりと

とてもがんばっていたみたい。

だから、ふたりともとっても仲の良い夫婦だったようでした。

しかし、

結婚して7年、

やはり時代は終戦間際。

じいちゃんにも例外なく赤紙が来ました。

その時、ばあちゃんに言ったそうです。

「必ず生きて帰る。

体は離れているけれど、魂はいつも一緒にいるからな。

必ず帰ってくるからな。」

そう言い残して

フィリピンへと旅立っていったのです。

そして翌年の1月9日未明、

ばあちゃんは夢を見たのだそうです。

茶の間にじいちゃんがのそりと入ってきて、

「あんた、何したんだ?」

との問いにも答えず、

とても穏やかな表情でにっこり微笑み、

少しすると両手を上げ、

叫びながら落ちていく(ような格好・音は聞こえない)

そして

ふっと消えてしまったという

あまりにも夢と言うにはリアルすぎる夢を見たのだそうです。

その夢から覚めたばあちゃんは

意識とは裏腹に

目からは涙がポロポロとこぼれ、

次の日の夕方まで涙が止まらなかったそうです。

その時ばあちゃんは確信しました。

「あぁ。あんた、最後の別れを言いに来てくれたんだな。」と。

それから遅れること4カ月。

4月の広報にて

戦没者のお知らせにじいちゃんの名前があったが、

ばあちゃんは、あの時だったんだなと分かっていたそうです。

広報には、

「フィリピンの島で相手兵と

壮絶なる死闘の末力尽きる」

というような記載があったのだが、

後日、

同じ戦地から生き延びた人がいて

ばあちゃんは話を聞きに行ったのだそうです。

すると・・・

「戦って亡くなった」

なんて大ウソで、

戦力を失った日本兵は、

飛び回る戦闘機に見つからないように

集団で防空壕潜み、

食料も飲み物もない中、

じっと耐えるしかなかったとのこと。

そして、

空腹と渇きで気がふれたようになった兵が

ひとり・・・

ふたりと防空壕から表に出て

まるでアリの巣からアリが這い出てくるように

出ては力尽き

出ては力尽きと

亡くなっていったそうです。

絶句。。。。

知らなかった・・・。

じいちゃんが戦争で亡くなったのは知っていたけど、

大方船に乗っているところの沈没とかかと勝手に思い込んでいた。。。。

じいちゃんが戦地へ発つ前に、

こんな手紙を出したのだそうです。

「忙しいと思うが、無理ならしょうがない、

○月○日1時

一日だけ舞鶴港に寄るから

来れるようならひと目だけでも会いたい。」


出兵前に一日だけ

家族との面会が許された時。

じいちゃんはひとりっきりだった・・・。

その年台風か嵐があり、

速達・電報が大いに遅れ、

この手紙がばあちゃんの手元に渡り、

読んだ時、

もうすでに当日だったのだそうです。

周りの兵隊さんたちは

家族の持ち寄るおはぎやお料理を食べ、

最後になるかもしれない別れの時間を

過ごしている時、

じいちゃんは

ばあちゃんが今、手紙を手にしているとは知らずに、

来るかな・・・

やっぱりこないよな・・・

なんて言いながら出兵していった・・・

そのじいちゃんの気持ちを思って

ばあちゃんは涙を流していた。

連れ添ったのはたった7年間の夫婦。

それよりはるかに長い

60年を超す月日が流れても、

ばあちゃんの心の中には

今もまだ鮮明じいちゃんは生き続けています。

夫婦の強い絆がそこにありました。

じいちゃん、

僕も結婚して9年になったし、

3人の子どもを持つ親になったけど、

母親、奥さん、子どもを残して

戦地に行き、苦しみの中亡くなっていった。

さぞかしつらかったよね。

さぞかし無念だったよね。

そんな思い

ちっとも知らずに

ぬくぬくと文句言いながら育った僕。

本当にごめんね。

じいちゃんがホントに望んだ

「家族一緒に暮らすこと」

これは今、僕は普通にしている。

しかし、

これが本当に幸せなことだなんて

ちっとも気づいていなかった。

これからは

じいちゃんの代わりに、

ばあちゃんを大事にし、

家族との時間を大事にし、

38歳で亡くなったじいちゃんの分まで

一生懸命、

この人生を生き切りたいと思います!

いつも見守っていてくれてありがとう。

初めて今、

じいちゃんの本当の孫になれたような気がするよ。

じいちゃんのこと、

子どもに、孫に、

必ず語り継ぐからね。

久吉じいちゃんありがとう。

そして今入院中のばあちゃん!

いつまでも長生きしてね。

大好きなひ孫たち、
のびのびと
すくすく成長してるよ!

 

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